医の倫理について考える―Ⅶ

生殖医療の進歩の中で
 通常の医療であれば、医師は自己の倫理観に大きく背くことがない限りにおいて、患者自身の判断に従って患者に恩恵を与えるべきであると思われる。一方、ある特定の行動が最善の利益に適うものであることが証明されないとしても、これまでの状況を考えると自分の選択どおりに行動する自由を欲する人々がいることは明白である。第三者を介した生殖補助医療を受けてでも妊娠を希望するクライアントが、正しくこれにあてはまる。しかし、この自律の原則が生殖医療に必ずしも適用できるとは限らない。クライアントには自己決定から生ずる結果を引き受けるだけの能力を有していることが要求されるが、クライアントが生まれてきた子どもや代理懐胎者に起こりうる社会的、医学的な様々な問題に対応できるとは考えられない。さらに本質的に自由意思に基づかないで生まれてきた子どもの福祉を守るために、干渉する権利が社会にあることも認識されなければならない。
 自律の原則は、個人が自分自身の運命を支配しコントロールすることを肯定するものである。自律の原則により要求されるのは、自分自身の生命および身体に対して自分自身が責任を負うという強い意志である。しかし、人が自分の個性を尊重しようとする際に自律性を強調しすぎると、自分の家族や社会から孤立することもありうる。究極的には自己の行動に責任を負うことは当然であるが、社会の枠組みも個人が自己決定を行う際に尊重すべき義務なのである。生殖医療で誕生するのは子どもである。生まれた子どもには意思決定の能力が与えられていない。この場合には自律の原則は何ら効力を持たない。この場合に医療者にできることは、善行の原則に立ち戻り、何が生まれてくる子どもやクライアントの利益に適うかについて得られる最善の客観的判断に従い、選択が行われるようにすることである。
 生殖医療の進歩により、さまざまな倫理的諸問題が起こるようになってきている。しかしながら、現在の生殖補助医療の問題は、進歩し確立されてきた医療技術の適応拡大という局面で生じた問題であり、代理懐胎や卵子提供による体外受精が先進医療技術であると捉えるのは誤謬である。施術しかも適応拡大の判断に関しては、医学的というよりも、むしろ社会の合意が重視される問題である。施術にあたった医師が患者のために先端医療技術を駆使できないのは、基本的人権の侵害であるという者もいるが、自己決定権だけでは行使できない状況もありうる。
 生殖の医療技術の進歩は素晴らしいものがある。しかし、どのように発展させていくかは人間の智慧が問われるところである。

(吉村 やすのり)

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