厚生労働省の専門委員会で、ヒト受精卵のゲノム編集の法規制に向けた議論が始まりました。ヒト受精卵のゲノム編集は、国際的にも議論が不十分なまま研究や臨床応用が先行してきました。欧州の主な国は、ヒト受精卵の臨床利用に関する法律で規制していますが、日本では政府の生命倫理専門調査会が2016年に臨床利用を認めない方針を決めたものの、指針のみでの対応にとどまっていました。
特定の遺伝子を切断して機能を失わせたり、外来の遺伝子を組み入れ新たな機能を持たせたりするゲノム編集技術は20年ほど前に登場しました。2012年に、欧米の女性研究者がより、使い勝手の良い手法でクリスパーキャス9を発表し、医療研究を含めて幅広い分野で急速に広がりました。
ヒト受精卵を巡っては、中国の研究チームが、2015年4月に初めてゲノム編集技術で遺伝子改変をしたと報告しました。米英中の学術団体は、8カ月後にヒトのゲノム編集について初の国際会議を開き、日本など約20カ国から数百人が参加して、安全性や有効性の問題が解決しない限り、改変した生殖細胞を臨床研究や治療に使うのは、無責任との声明をまとめています。しかし、その声明の中で、ヒトの生殖細胞や受精卵をゲノム編集する基礎研究は容認しています。これまでに中国や欧米、ロシアの研究チームが、計10本以上の論文を出し、不妊の原因解明といった基礎科学的な目的のほか、遺伝性難病予防などの臨床見据えたものもみられます。
状況を一変させたのが、昨年11月の中国の研究者による世界で初めてゲノム編集ベビーを誕生させたとの発表です。南方科技術大学の賀建奎副教授は、国際会議で、受精卵をエイズウイルス(HIV)に感染しにくいよう遺伝子改変した上で双子を誕生させたと説明しました。中国当局も双子の存在を確認し、世界中で大問題となりました。賀氏の発表を受けて、世界保健機関(WHO)は諮問委員会を設置し、ヒトのゲノム編集を対象とした国際的な登録制度などを促す暫定勧告を3月にまとめています。全米科学・医学アカデミーと英王立協会も、ヒトの生殖細胞をゲノム編集して医療などに応用することに関する国際委員会を設けています。
ヒト受精卵のゲノム編集は、現在の技術ではゲノム編集で想定していない遺伝子まで改変され、がんを引き起こす恐れもあります。また、受精卵を遺伝子改変すれば、改変された特性が次世代にも引き継がれ、影響を及ぼすことになります。しかし、ゲノム編集は技術がさらに進展すれば、難病の治療などに使われる可能性もあります。現時点では、基礎研究にて技術の進歩とともに安全性の検証を行い、母胎に戻すことを法的に禁止することが必要になります。クローン技術と同様、臨床利用を法律で規制し、基礎研究は進めるべきです。遺伝病の治療にとって、ヒト受精卵のゲノム編集は大切な科学技術の一つです。
(2019年8月7日 毎日新聞)
(吉村 やすのり)