河合香織氏の「選べなかった命 -出生前診断の誤診で生まれた子-」が、今年の大宅壮一ノンフィクション賞と新潮ドキュメント賞に選ばれました。2013年、ある夫婦が産婦人科医を相手に裁判を起こしました。出生前診断で異常なしと告げられていた男児が、医師の羊水検査の結果を誤って伝えたことにより、ダウン症で生まれ、その合併症のため約3カ月で死亡してしまいました。妊娠を継続するか中絶するかの判断の機会を奪われたと損害賠償を求め、苦しんだ男児への慰謝料も請求しました。
裁判で、医師側は母体保護法により中絶は生命倫理に反すると、中絶の選択権が侵害されたという訴えを問題視する主張をしていました。わが国の現行法では、人工妊娠中絶は経済的・身体的理由などに限られ、優生学的な思想への反発から、胎児の異常を理由とした中絶は認められていません。しかしながら、出生前診断でダウン症などの胎児の染色体異常があると判断された場合は、ほとんどの妊婦の方々は中絶を選択しています。法律と現実との間には大きな乖離があるのですが、現行の母体保護法のもつ問題点を言及することなく、胎児条項ではなく、経済的・身体的理由により母体の健康を著しく害する恐れのあるものとして人工妊娠中絶が行われています。
この裁判は、既にこの世に生まれた子どもを出産するか中絶するか自己決定する権利が奪われたとして訴えたものです。誤診によって予期せぬダウン症児が誕生したことで、両親が精神的打撃を受けたことに対しての慰謝料は認められました。裁判所は、羊水検査の結果によってダウン症だと分かれば、産むか産まないかを妊婦が決定し、心の準備をすることは守るべき利益だとの判断をしています。
出生前診断で異常に気づき、その後に出産するか中絶するかの判断に家族は苦しめられます。出生前診断においては、胎児の生きる権利であるプロライフ、女性の産む、産まないの権利であるプロチョイスが相克しています。人工妊娠中絶においては、妊娠女性の権利と胎児の権利が真っ向から対立しています。胎児条項による中絶は許されるのか、妊娠女性のリプロダクティブ・ライツにより中絶が許されるのかを議論することなく、出生前診断が実施されてきています。出生前診断の是非論や運用を議論する際には、現在の母体保護法の改正も視野に入れた幅広い考察が必要となります。
(吉村 やすのり)