そんな時、思いがけず慶應義塾大学医学部から声がかかった。当時産婦人科教室には婦人科教授はおられたが、さまざまな理由から産科教授が5年間不在であった。そのため早く教授を選任しなければならないとのことで、たまたま私にお鉢が回ってきたのである。
自らの意思ではなく、幸運の一言に尽きる。偶然に与えられたステイタスであり、海図なき航路のようなものであった。14年ぶりに教授として慶應大学に復帰した。1年経過した頃に妻が子宮がんに羅患し、慶應で手術を受けた。
慶應に戻り3年経過した時、妻の大学で形成外科の教授選が行われることになった。私も慣れない教授職と子どもとの二人の生活にも疲れていたこともあり、彼女に教授選へ応募しないで東京に戻り、家族三人で生活することを提案した。しかし、これまでの努力と家族(特に子ども)に対して強いた犠牲を考えると、教授選に出たいとの彼女の希望が強く、私の願いは叶わなかった。皆様方のご支援により、運よく彼女も教授に就任することができた。
爾来、別居は継続したままである。彼女はその後も仕事を継続し、藤田保健衛生大学で素晴らしい形成外科教室をつくり、立派な臨床医を育てている。子育てをしながら教授職を続けることは困難を極めたが、真の意味で自立できたのではないだろうか?素晴らしき仲間に助けられ何とか責任を全うすることができた。
(吉村 やすのり)