浜松赤十字病院出張後2年経過し、米国に留学することになった。当時自らは留学して研究を続ける希望は全くなかった。外国生活に不慣れであり、本心では困惑していた。しかも妻は
藤田学園に転出してから日が浅いこともあり、米国へ一緒に行くことはできないとのことであった。現在であれば職を辞してでも渡米するところであるが、当時は形成外科教授からの許可が下りず、単身渡米となった。現在であれば、女性医師が一緒に渡米するケースがほとんどであり、教授として単身留学を強要することなどできる訳がないが、私の場合、単身ペンシルバニア病院に留学することになった。米国での生活が10カ月程過ぎた時、妻と子供が合流した。家族3人の生活はそれまでの生涯で最も楽しく充実したものであった。
米国の生活が1年経ち、指導者であった教授がジョンズホプキンス大学のChairmanとして赴任することになり、帰国も考えたが、一緒に移動するように勧められ、ボルチモアに移った。妻と子供は当初から1年の予定であったが、妻もペンシルバニア大学、ジョブホプキンス大学で研究をすることができた。家族が帰国してからは、外国での単身赴任の大変さもあり、2年間の留学後に帰国する予定であった。しかし、私の後任の医師の都合がつかず、日本の教授の帰国許可が下りず、この留学生活は意に反して3年4か月にも及ぶことになった。自ら望んだ留学ではなかったが、医学研究の深奥に驚嘆し、この米国での研究生活は自らの将来に大変意義のあるものとなった。
(吉村 やすのり)