相模原市の障害者施設津久井やまゆり園で起きた殺傷事件で、横浜地裁は殺人などの罪に問われた元職員に死刑を言い渡しました。事件の規模や残虐性とあわせて社会が衝撃を受けたのは、被告の障害者は不幸をつくるという言葉でした。この歪んだ認識が生まれ、裁判を通じてふくらんでいった原因や背景が、その一端でも明らかにされることが期待されました。しかし、これほどの凶行に至り、人の命に格差があると言い続ける原因や背景は何だったのか、裁判で解明されないまま結審してしまいました。障害者福祉施設で働きながら、被告がどのように歪ゆがんだ考えを強めていったのか、遺族を始めとする多くの人が感じた疑問に答えるような審理が行われることはありませんでした。今後、今回のような事件が二度と起きないよう、社会に潜む差別意識を払拭する努力が欠かせません。
意思疎通がとれないという勝手な理由で障害者が殺傷されたこの事件は、全ての人は生きる権利があるという大前提を覆しました。人に価値を求める風潮が被告を歪めたのかもしれません。事件は生産性の有無で人の価値をはかる時代の風潮を映し出しました。生産性のない命には価値がないと被告が突き付けた問いかけを跳ね返すために、取り組むべき課題はあまりにも多く、私達の現在の社会自体のあり方が問われています。不幸を生む重度障害者は必要ないとの被告の言葉は、共生を掲げる私達の社会に、投げかけられた問いに他なりません。世の中にあふれる差別という問題に、社会が向き合うべき時がきています。
経済的な利益を生まず、社会貢献もできない者は生きる価値がないと、障害者の命を否定したことは許せる行為ではありません。かけがえのない命と言われる一方、経済至上主義の中で人の命が軽視されるようになってきています。誰しもそれぞれの立場の人々に対する差別があり、障害のある人々を見て生きている意味があるのかと考える今回の被告のような人もいるかもしれません。障害のあるものは不幸で価値が低く、社会の負担とみるような優生思想は未だに根強いものがあります。しかし、これは、私たちが障害者に対して無知であり無理解であることに起因しています。生き方の「幸」「不幸」は、他人が言及すべき問題ではありません。
誰もが子どもに障害があったとしても、その子どもが幸せに生きていってほしいと考えますが、現実の社会を見ると障害をもって生まれてきた子が、必ずしも幸せな人生を送っているとは限りません。これまでの人間社会は、障害をもった人がそして家族が、もがき苦しむような社会であったかのようにも思えます。障害をもつ子どもが生まれても、不安なく育てていける社会であるならば、いのちの選択をしなくても良いのかもしれません。そのためには社会の人々が、障害に対して正しい知識を持ち、障害をもつ人と共に生きる社会の実現を目指すようになれば、障害そのものが障害でなくなっていきます。
現在の日本においては、障害をもつ子どもは、病気、障害、差別などに苦しむ社会的弱者としてみなされてきています。こうしたマイリティ-の声に耳を傾け、そして彼らの権利を守り、彼らが安心して暮らせるような社会を築くことにより、「障害のある」といった、障害を人の多様性として捉えることができるようになります。そして、障害を個性と考えられるようになります。個性は、性のみならず、障害のある、なしを超えることができます。健常者は、障害のある人から実に多くのことを学びます。障害のある子どもと出会った親たちの多くは、障害に対する価値観を変容させ、人生や生活の質が変わることを認識します。障害のある人の成長に励まされ、彼らの優しさに触れ、暖かさに気付かされ、人を幸せにする力により癒されていく自分に気付くことになります。障害のある人が安心して生きられる社会は、だれもが生きやすい社会なのです。
人の罪を裁くだけの裁判ではなく、罪を犯した背景や原因の一端が現在の社会にあることを重く受け止めるべきです。
(吉村 やすのり)