別居結婚のすすめ Ⅱ 慶應での研修医時代

産婦人科医となり、慶應義塾大学医学部産婦人科に入局した。6年間の研修が終了し、出張病院を選ぶことになった。同級生の中で私だけが、自らの希望が通らず、

当時の教授の命令によって最も人気のなかった浜松赤十字病院に2年間出張することになった。この時家内は慶應での形成外科の研修が1年残っており、これが長い単身生活の始まりであった。教授もこの出張に対して私に大変申し訳ないことをしたと思われたのか、月に2回週末を東京に帰り研究を継続しても良いとの御配慮を頂いた。この際の往復交通費も出張病院から出すように頼んで下さった、このご厚意により、研究を存続することができた。

1年半余りが経過し、妻は名古屋にある藤田学園保健衛生大学医学部に出張した。私の生まれ故郷が岐阜であることより、いずれ同居できることを望み、彼女は東京生まれの東京育ちであったが、名古屋での就職を希望した。浜松の2年間の出張後は、私も名古屋の同じ大学に移動したいと考えていた。子どもは当時4歳であったが、妻が名古屋に転居してからは岐阜の実家に預けて幼稚園に通っていた。家族3人はそれぞれ、浜松、名古屋、岐阜に住むこととなった。女性がキャリアを形成するためには周囲のサポートが不可欠である。しかしながら、子どもには大変な苦労をかけた。

(吉村 やすのり)

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