帰国後、私も藤田学園保健衛生大学医学部に就職した。この3年8か月間は米国での研究生活から臨床感覚を取り戻すには絶好の職場であった。教室の若い先生方も非常に協力的で、米国からの研究の継続に傾注した。藤田学園での生活は妻も同じ職場であったこともあり、快適なものであり、当時はこのまま名古屋にいることを希望していた。しかしながら、
この名古屋生活も長くは続かなかった。
私の慶應時代の直属の上司であった先生が、杏林大学に異動されており、藤田学園から杏林大学へ移り、一緒に仕事をしてほしいと要請された。東京育ちの妻が名古屋の藤田に就職したのは、私の生まれが岐阜であることが大いに関係しており、彼女の同意は全く得られなかった。教授や上司であった先生方の要請を断ることができず、杏林大学へ異動し、また単身赴任することになった。杏林の研究仲間の強力な支援もあり、充実した魅力的な臨床ならびに研究生活を送ることができた。杏林大学へ移り1年経過した頃、過労が原因でネフローゼになり4か月間入院した。退院後、東京の女子中学に入学した長女と同居を始めた。子ども2人での生活は快適であり、娘の学校行事にもできる限り参加した。
この5年5カ月は大変貴重なものであったが、単身生活が米国も含め10年以上にもおよび、そろそろ家族とも一緒に生活すべきであろうと思い、故郷岐阜での開業も含めいろいろな選択肢を考えられるようになっていた。
(吉村 やすのり)