60年前に別の新生児と取り違えられた男性が病院側を訴えた裁判で、東京地裁は病院側に3,800万円の支払いを命じた。男性が真実を知った時の衝撃の大きさや喪失感の深さを思うと、その心情察するに余りあるものがある。まさにアイデンティティークライシスである。
この報道を聞いて、非配偶者間の人工授精(AID)によって生まれた子どものことを考えた。これまで育ててくれた父親が、遺伝子的な父親でないことを知った時の衝撃も同様のものかもしれない。これまで信じて疑うことのなかった両親が、自分に真実を語らなかったことに対する不信感も加わり、二重の苦しみを味わうことになる。やはり今後は、AIDを望むクライエント夫婦も実施する医療者側も、子どもに対する真実告知と子どもの出自を知る権利を考慮せざるを得ない状況になっていくものと思われる。
もう一つ注意すべき点は、生殖補助医療を実施する際の受精卵の取り違えである。2008年にわが国でも実際に体外受精時に受精卵を取り違え、妊娠後その事実が判明し、間違って胚を移植された女性が中絶を余儀なくされた事件もおこっている。それ以降、日本産科婦人科学会では、生殖医療の臨床実施における安全管理に関する指針が作製され、ダブルチェックが義務付けられている。一日に十数例の採卵や受精が実施されるクリニックもある。実施にあたっては十分な注意を払うことは言うまでもないことである。
(吉村 やすのり)