コロナ禍に憶うこと

ウイルスは、ヒトなどの高等動物の遺伝子の断片が外界に飛び出したようなものである。環境中をさまよい、ヒトなどの宿主に入り込む。宿主を殺してしまうような強毒なウイルスは、宿主と運命を共にし、生きながらえることはできない。しかし、多くのウイルスの場合、宿主と共存する立場を取る。宿主は免疫を獲得し、ウイルスは変異を繰り返し、ほどほどに宿主と平衡が取れるウイルスだけが淘汰の末に生き残ることになる。いずれ今回の新型コロナウイルスも、このような帰趨を辿ると思われる。
今回のコロナ禍では、ゲノム科学の進歩によりウイルスの遺伝子構造は瞬時に解析され、発症起源は同定され、ウイルスを高感度で検出するPCR検査も診断に盛んに応用されている。しかし、科学の進歩はこのウイルス感染症には無力であったと言わざるを得ない。現状はウイルスに対する治療薬もなければ、感染防御策もない状況で、ウイルスに対応していかなければならないのである。他国に比べると緩い、強制力のない自粛要請というわが国のコロナ対策は、これまでのところマスコミ報道にみられるような失態の連続とは言い難い。どんなに科学が進歩しても、100年前のスペイン風邪の時と同様、パンデミックを防ぐには、3密を避け、手を洗い、マスク着用の徹底といった手段しかないことが実証されたと言える。
欧米と比較し、わが国を含めたアジアの死者数の少なさは今後の大切な検討課題になる。今回のコロナ禍で、経済効率を優先させるグローバリゼーションは、感染症に極めて弱いことが露呈された。欧米はPCR検査を駆使し、新型コロナウイルスを徹底的に叩こうとしたが、いずれの国もその政策に失敗し、深刻な状況に陥っている。一方、わが国はPCR検査や診療への謙抑的ともいえるアクセスにより、これまで危機的な状況を回避している。政府の自粛要請に国民が見事に反応した成果であるといえる。
世界中で未曾有の事態に遭遇し、その渦の中でよりベターなものを模索してきた。わが国の取ってきた政策がベストであったとは誰も思っていない。しかし、事後的に評価すれば、明らかに間違っていたとも思えない。国民を満足させるPCR検査ができず、診察も受けられないウイルス対策には、現在もなお国民の間で大きな不安と不満が渦巻いている。しかし、医療崩壊も起こらず、死者数も少なく、国際的に見ても一定の成果を上げているにもかかわらず、国民の満足感を得られているとは言い難い状況にある。
ポストコロナ後の社会において、ベストでなくともベターの解答で満足する度量や余裕が必要であるように思える。日本人には周りと協調して行動をしていかなければならないといった社会的コンセンサスがあり、この良識が今回のコロナ禍の最悪のシナリオを回避させたのかもしれない。しかし、第2波、第3波に向けては、社会的合理性に頼るのではなく、科学的エビデンスに基づいた対策が必要となる。新型コロナウイルスのゲノム情報の解読が、ワクチン開発への道を開いている。その実用化によりポストコロナの世界は大きく変わりうる。

(吉村 やすのり)

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