パンドラの箱

近年の生殖医療の進歩は瞠目に値する。かつては全く妊娠できなかった不妊カップルにおいても、体外受精・胚移植により妊娠が可能になった。この体外受精・胚移植をはじめとする生殖補助医療は、まさにプロメテウスによりもたらされた人類にとっての素晴らしい贈り物である“火”となった。しかしながら、現在の生殖医療は、現在の希望の医療であると同時に、欲望の医療という側面を持ち合わせるようになってきている。欲望は人間が求める自由そのものであり、他者に危害を加えることがなければ、自己決定権が尊重されるとして、その進歩は誰にも止めることはできない。現代社会においては、コミュニィティ-が規範や制禦となった嘗てのようなおもかげはなく、個人の欲望を抑えるメカニズムが作用しづらくなっている。しかも社会の倫理感は、学問の進歩や医療技術の進展とともに変化しうるものである。
 現在日本では認められていない代理懐胎が海外で実施されていれば、何としても試したいと思うクライエントがいる。高齢のため無月経になった女性が若い女性の卵子を求めて、渡航するクライエントカップルもいる。一方で、卵子提供のため海外旅行を同時に楽しむ若い女性がおり、そのためのエ-ジェントも存在する。また最近では、卵子の老化を心配する独身女性が将来に備えて、卵子を凍結保存しておくサ-ビスが始まっている。この背景には、女性がキャリアを形成しながら、結婚・妊娠・出産できない社会状況がある。このいわゆる“社会的な卵子凍結”を若い女性が実施するのを一概に否定できないが、個々の欲望はエスカレ-トするばかりである。ここで社会が慎重に見守るべき先は、生殖医療のビジネス化である。
 生殖医療はクライエントに子どもを授けるための医療である。しかし生まれてくる子どもは、医療行為実施の決定の場に、当然のことながら立ち会うことは出来ない。そのため、社会が子の利益を可能なかぎり代弁してあげなければならない。このような権利を主張できない新しい命にどう責任をとるのかが改めて問題となる。生殖医療においては、生まれてくる子どもの同意を得ることはできないのである。果たして生殖医療によって生まれた子ども達は、生殖医療によって生まれてきたことを是認するだろうか。畢境するに、生殖医療においては倫理的な完璧性を追求することはできないということである。
 ロ-マ・カソリックは、ヒトの体外受精の研究が始まった時、胚も人格を持った人間であり、倫理的に同格であるとし、人倫に対する挑戦行為と猛烈な批判を浴びせたという経緯がある。体外受精によってもたらされた現在起こっている様々な問題を、40年以上も前から予測していたのかもしれない。生殖医療の発展が科学の進歩や人類の幸福に貢献したところも多い。しかし、どのように発展させてゆくかは人間の智慧が問われるところである。それが人類にとって福音となったかどうか。ヒトは、人類として超えてはならない限界を超えてしまったのかもしれない。ヒトは、もうすでにパンドラの箱を開けてしまったのかもしれない。

(吉村 やすのり)

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