生殖医療管見-Ⅳ

生殖医療の特殊性
生殖医療は人の生命の誕生にかかわる医療であることから、通常の臨床医学とは本質的に異なった倫理観が必要となる。それは生殖医療がすでに存在する個人を対象とするのではなく、生命の誕生そのものを対象とするからである。医師が患者に医療行為を施すとき、「患者のために」とか「患者は待っていられない」という言葉がよく使われる。臨床医学では、医師が患者の求めに応じてその時代における最高水準の医療を提供できる。しかしながら、生殖医療においてその治療の対象は、クライエントと生まれてくる子を含む家族である。さらに第三者の身体や身体の一部が医療手段として利用されることになれば、その提供者と家族も対象となり、患者と医師という一対一の関係だけでは完結することができない特性を有しているからである。
生殖医療を希望するクライエントにとって、自己完結できる場合には彼らの希望が最大限許容されるべきであり、自己決定権が尊重される。しかしながら、第三者を介する生殖医療の場合においても、子どもを持ちたいという幸福追求権は果たして保障されるべき絶対的な権利であろうか。子宮を摘出した女性が自分の子どもを持ちたいという自己決定権や幸福追求権は、憲法13条によっても保障されているとはいうが、自己決定権だけではその是非を判断できない場合がある。子どもをつくることは、クライエントにとって保障されるべき基本的人権であるのか、あるいは生殖に関わる倫理には生まれてくる子の同意を得ることができないという特殊性があることから、社会によって規制されることもありうるのかといった根本的命題は未だ解決されていない。
 代理懐胎をはじめとする第三者を介する生殖医療は、わが国で長年築かれてきた親子・家族の社会通念を逸脱する可能性もあり、生まれてくる子どもの福祉が守られるような充分な配慮が必要であることは言うまでもないことである。また、これら自己完結することができない生殖医療行為に関しては、幸福追求権や自己決定権のみでは必ずしも実施できるとは思われない。つまり、卵子提供や代理懐胎などの医療行為は、医学とはまったく次元の異なる問題であり、人権、社会的倫理、法的な観点から議論されるべきである。これら施術の応用の是非は、メディカルプロフェッションとしての学会によって決定されるべきではなく、社会的判断が必要となり、最終的には立法府にて広く議論されるべき問題である。

(吉村 やすのり)

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