“障害をもつこと”と“障害のあること”

 生まれてきた子どもに障害があった時、また出生前診断を実施し染色体異常があった時、クライエントにとっては常に健常者の姿が目標となっているために、家族は、これまでにない絶えざる悲しみに包まれることになります。身体にさまざまな障害をもち、これから先どのように生きていけるのか、自分達がいなくなってこの子どもはどうなるのかなど、不安に哂されます。新型出生前遺伝学的検査で胎児に染色体異常があると判定された時、子どもが障害をもって生まれてくるのは、大半の方は、自分達のみならず子どもにとっても不幸であると考えます。そして多くの方々が、中絶を選択されます。
 誰もが子どもに障害があったとしても、その子どもが幸せに生きていってほしいと考えます。しかし、現実の社会を見ると障害をもって生まれてきた子が、必ずしも幸せな人生を送っているとは限りません。これまでの人間社会は、障害をもった人がそして家族が、もがき苦しむような社会であったのかもしれません。障害をもつ子どもや家族は、子どもが不幸になるのではないかと不安に苛まれます。障害を持つ子どもが生まれても、不安なく育てていける社会であるならば、いのちの選択をしなくても良いのかもしれません。そのためには社会の人々が、障害に対して正しい知識を持ち、障害を持つ人と共に生きる社会の実現を目指すようになれば、障害そのものが障害でなくなっていきます。つまり、“障害をもつ”ではなくて“障害のある”との考え方ができるようになります。
 現在の日本においては、障害をもつ子どもは、病気、障害、差別などに苦しむ社会的弱者なのかもしれません。こうしたマイリティ-の声に耳を傾け、そして彼らの権利を守り、彼らが安心して暮らせるような社会を築くことにより、“障害のある”といった、障害を人の多様性として捉えることができるようになります。そして、個性と考えられるようになります。個性は、性のみならず、障害のある、なしを超えます。健常者は、障害のある人から多くのことを学びます。障害のある人の成長に励まされ、彼らの優しさに触れ、暖かさに気付かされ、人を幸せにする力により癒されていく自分に気付くと思います。障害のある人が安心して生きられる社会は、だれもが生きやすい社会なのです。

(吉村 やすのり)

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