生殖医療管見-Ⅱ

生命倫理への問題提起
  エドワ-ズ博士は、ヒト体外受精の成功に遡ること20年程前より、ヒト受精の基礎研究を開始していた。ヒト卵胞卵の体外成熟、初期胚発育、胚盤胞の作成など、着々と実績を上げていた体外受精研究に対し、当初からロ-マ法王庁は人権に対する挑戦行為と痛烈な議論と批判を浴びせていた。公式見解として否定的立場を取ったのは、19873月に公表されたロ-マ法王庁の公式文書「生命誕生への尊敬心と出産の尊厳に関する指示書」においてである。「人間の生と死の運命をつかさどるのは神である。・・・中略・・・試験管内で育った受精卵は既に生命を宿しているにもかかわらず、科学的物体として処理される。これは無防備な人間を殺すのに等しく、神の領域の侵犯行為である。良心を持たない科学は人類に滅亡をもたらすだけである。」と述べ、現代医学の発展を人類の進歩と位置づける科学者に厳しい警鐘を鳴らした。もとより、この指示書の公表に至るはるか以前、体外受精の方法論の開発段階、つまり世界初の体外受精児の出産に至る研究段階から、法王庁は強い否定的見解を表明してきた。
 ローマカトリックに対して、英国国教会は体外受精について一定の条件下で容認するという柔軟な立場を取っていた。イギリス保健省は、体外受精に関する諸問題を統括的かつ一元的に解決する目的で、ケンブリッジ大学哲学科教授であるワ-ノック女史を委員長とする「ヒト受精と胚発生に関わる医学・科学・倫理・法律について考察と勧告」の調査委員会を1982年に設置した。そして1984年、生殖補助医療と胚発生研究に関する64項目の提言を含むワ-ノック報告を提出している。
その報告書の中で、前胚pre-embryoという概念が提唱されている。すなわち「胚は受精後最初の2週間は存在しない」とし、中胚葉性の原始線条primitive streak の出現を以って「胚」とするべきであるとし、体外受精卵を研究対象とすることは許されるとの考え方を示した。イギリスでは、この報告が基となって制度の整備が進み、1990年には「ヒト受精と胚研究に関する法律,Human Fertilization and Embryology Act(HFEA)」が制定され、翌年に「ヒト受精と胚を対象とした治療と研究に関する管理局,Human Fertilization and Embryology Authority(HFEA)」が設立された。この法律および運営機関は、体外受精学と生殖補助医療の歴史に残る偉業との評価が高く、他の体外受精実施国に規制のモデルを提供してきた。
ローマ・カソリック教会は、体外受精の研究の黎明期より批判的な見解を出してきたが、当時はこの先端医療技術がこれほどまでに家族観や社会観を大きく変えるような医療になるとは想像していなかったと思われる。この医療をめぐっては、現在社会的、倫理的、法的な多くの問題が提起されている。クライエントが希望し、治療に同意すれば医療行為を受けることは可能であるが、生まれてくる子どもは医療行為実施の場に立ち会うことができず、子どもの同意を得ることはできない特殊な医療である。子の福祉を最優先するような倫理的な完璧性を追求できないと思われるヒト体外受精において、バチカンの生命の起源に対する一貫した立場は、瞠目に値する。

(吉村 やすのり)

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