医師の働き方改革に憶う

日本の医療提供体制が危機的な状況にある最大の要因は、2004年に始まった新しい臨床研修制度だと考えられます。それ以前の新人医師の多くは、診療科間の仕事内容の違いも分からないまま、いきなり大学の医局に入り研修を行っていました。大学医局で滅私奉公的な初期教育を5~10年程度受けた現在の50歳以上の医師の多くは、常に週80時間ほど病院におり、請われれば過疎地でも働くといった労働観を持つ人が多数を占めていました。
2004年以降の初期臨床研修では、研修医は色々な診療科を回るようになり、どこの診療科が大変かを見極められるようになりました。さらに午前9時~午後5時の研修時間を厳格に守ることが義務付けられ、現在40代前半以下の医師は、その前の世代の滅私奉公的な研修を経験せずに、最初の2年間の医師としての生活をスタートしています。その結果、価値観の変化も相まって、ワークライフバランスを重視する労働観を持つ若い医師が増えました。
分娩や術後管理などで長時間労働を強いられる手術や救急は、避けたいという若い医師の声に象徴されるように、ワークライフバランスを重視する世代の医師の多くが、夜勤のない定時勤務の診療を望むようになりました。日本の医療は、大都市の軽症向けのクリニックなどの受診は便利になりました。しかし、がんになった時に手術をしてくれる外科医や、心筋梗塞や脳卒中が発症した時に対応してくれる救急部門で働く医師が減少し、生命に関わる肝心な時に診てもらえない方向に確実に向かっています。
1998年から2008年にかけて医師総数は、24万9千人から28万7千人へと15%増え、さらに2018年にかけては32万7千人へと14%増えています。しかし、一般外科医に整形外科医・脳外科医・胸部外科医などを加えた外科系医師総数は同時期にそれぞれ5%、10%の伸びにとどまっています。一般外科を除く全ての診療科では、1998年から2018年にかけて医師数が伸びているのに対し、一般外科ではいずれの期間も減少しています。一般外科医の人数の推移を年齢階級別にみると、20~39歳の減少率が突出して大きくなっています。産婦人科においても総数は増えていますが、分娩などを取り扱う産科医は増えていません。若い世代の産科医や一般外科医不足がこれまで顕在化しなかったのは、現在55歳以上の世代が現役で働いているからです。しかし間もなくこの世代が引退を決める年齢に達し、分娩や手術する医師が急激に減少すると思われます。
医師の減少に追い打ちをかけるのが、医師の働き方改革です。2024年4月から実施される医師の働き方改革では、時間外労働時間の上限は原則として年960時間、特例措置として年1,860時間という2つの基準が設けられます。所定労働時間が週40時間とすると、年960時間の場合は週にならせば約58時間勤務、年1,860時間の場合は約75時間勤務が上限となります。週58時間以上働く医師の大半は、大学病院や救急患者を多数受け入れている病院で勤務し、診療科別では、救急、外科系診療科、産科などに集中しています。
働き方改革とは、救急、外科系診療科、産科など人手不足を現在長時間労働で何とか成り立たせている診療科の労働時間を、強制的に週58時間もしくは75時間に短くする改革と言えます。その結果、第1に夜間にこれまでのように医師を働かせることが困難になり、特に夜間救急患者を受け入れてくれる病院が非常に少なくなります。第2に手術提供能力の低下により、分娩や手術の待ち期間が長くなり、分娩する場所が無かったり、がんになってもすぐに手術を受けられなくなります。こうした患者自身の命に関わる大きな副作用が伴う改革であることを国民は認識すべきです。
しかし、働き方改革を実施しなければ、救急医、外科系医師、産婦人科医などのなり手がさらに減り、早晩大変な状況になり、年を経るごとにその状況は悪化の一途を辿ることが予想されます。こうした事態を回避するには、上記の診療科に進もうとする医師を増やすことが必要となります。
働き方改革を乗り切るためにDXにより医療の生産性を上げることや、医師から他職種へのタスクシフトを進める必要があります。手術や分娩や救急に関わる医師の仕事は大変ですが、その代わりに給与が他の診療科より高くなることを明示し、その診療科を目指す医師を増やすことが必要です。手術や分娩や救急に関する診療報酬の一部を、病院を介してではなく医師に直接支払うドクターフィーを導入すべきです。大変な診療科で働く医師に対する金銭的なインセンティブ導入や、働き方改革を契機に医療の生産性を高める取り組みを早急に進める必要があります。

(2023年9月26日 日本経済新聞)
(吉村 やすのり)

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