ヒト受精卵のゲノム編集について憶う

 ヒトのゲノムが短時間で読み取れるようになり、様々な病気と遺伝子の異常との関わりが明らかになってきています。さらに遺伝子改変ができるゲノム編集技術が進み、病気治療への応用に期待が高まってきています。ゲノム編集をした生殖細胞から子が生まれれば、影響は後の世代にまで及びます。通常の遺伝子治療のように、患者を数年間フォローするだけでは済まず、子や孫の世代以降に及ぶだけではなく、人々の移動が激しい中で、影響は一つの国にとどまらないことも予想されます。人類全体の遺伝子資源が改変されることになりかねないという、重要な問題をはらむことになります。生殖細胞のゲノム編集は、科学だけの問題ではなく、大きな倫理的課題も含んでいます。
 遺伝性疾患を持つ人が健康な子を産みたいという切実な願いから、新技術の利用を求める気持ちはよく理解できます。しかし、研究の現場では、生殖細胞のゲノム編集がすぐに必要になるとは認識されていません。新しいゲノム編集技術が開発されて利用しやすくなっていますが、現時点では狙ったのとは異なる遺伝子を変えてしまう場合がでてきています。まだ治療に応用できる段階になく、さらなる技術革新が必要であり、数々の基礎研究の成果の蓄積が求められます。ゲノム編集の技術を使って、不妊症にどんな遺伝子の働きがかかわっているかなどを特定できる可能性があるとの指摘もあります。しかし、現在の生殖医療の現場において、不妊病態の解明に生殖細胞のゲノム編集技術が必要であるとは考えにくいと思われます。
 医学研究者に対しては、難病患者などから過度の期待が寄せられています。生命倫理専門調査会の報告書においては、生殖細胞のゲノム編集によって病気のメカニズム解明などを目指していますが、胎内に戻して育てるといった臨床応用はすべきではないとしています。しかし、基礎研究を容認するという点が強調されています。しかし、実際には運用指針、審査体制が整備されておらず、すぐに始められるわけではありません。すでに日本遺伝子細胞治療学会や日本産科婦人科学会など関連する4学会も声明を出し、ゲノム編集の臨床応用の禁止措置や基礎研究の指針を設けるように求めています。報告書を受けて、実際に指針を作るのは、厚生労働省や文部科学省、経済産業省であり、各省の担当者は専門委員会を組織し、いずれ何らかの方向性を示すことが必要になります。
 日本には新技術の光と影を冷静に判断し、生命の尊厳の問題などにも向き合って応用の是非や範囲を話し合う土壌がありません。問題が起きるたびに付け焼刃的に専門家の会議で議論し、報告書を出してきたといった経緯があります。倫理的にも、社会的にも、我々が共有できる価値観を担保できるような、見識と発言力を兼ね備えた生命倫理委員会の常設が期待されます。

(吉村 やすのり)

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